プロレスリング散空抱地 〜人類選抜戦〜

 病院のトレーニング室らしき所で恐ろしく巨体の男が座っている。
 開いた足の膝に両肘を預け、ゴムボールを何度も何度も握りしめている。
 姫河恵二は手の動きを止め、大きく息を吐いてから決意に満ちた表情で虚空を睨んだ。

 画面が切り替わる。リング上に雅婁馬隆作が激しいブーイングを受けながら立っている。
 雅婁馬隆作「フフフフフ。みなさん。ここで、来週王座戦を戦う二人に意気込みを語ってもらうことにしよう」
 グレッグエイクの『コールドスプレイ』が流れて阿杜未森が入場する。ブーイング。
 緑のタイツを穿いた阿杜未森が入場口で飛んだり跳ねたりしている。
 阿杜未森がリングに上がる。雅婁馬からマイクを受け取る。
 ブーイングが薄れるのを待って阿杜未森が話し始める。
 阿杜未森「昨夜、足の悪い私の母が私を呼び寄せてこう言いました」
 一呼吸置く。
 阿杜未森「“未森。私の可愛い未森。お前には信念と呼ぶことのできるものがあるかしら。その為ならどんな犠牲を厭うことも拒む信念が”」
 また一呼吸置く。目を閉じて下を向き、手を額に当てる。
 目を開き、手をおろし、足を肩幅に開いて客席上段のカメラに視線を合わせる。
 そのカメラが急速にリング上の阿杜未森にズームしていく。
 阿杜未森「答えるよ母さん。俺は来週、光栄にも格式ある世界王座に挑戦することが決まった。母さん、見ていてくれ。俺にどんな犠牲を払う覚悟があるのかを。俺の前に立ちふさがるなら、母さん。俺は大統領だろうと、木々の梢から染み出る柔らかい朝の陽光だろうと」
 手を顔の斜め前に掲げ、ゆっくりと拳を握りしめていく。
 阿杜未森「俺のこの鍛え上げた右腕で握りつぶしていくだけだ」
 自信と殺気に満ちた表情で空中の一点を睨み続ける。
 しばらくしてからようやく再び動き始め、雅婁馬隆作にマイクを返す。
 雅婁馬隆作「ありがとう、未森。俺は感動しちまったぜ、フフフ。お袋さんを大事にな」
 解説者「相変わらずふざけた野郎だ。ひとつ質問してもいいか、金井。奴はどうして昨夜母親に質問された時に答えなかったんだ?何故一夜明けて仕事場から画面を通じて母親に個人的なメッセージを送ってる?母親の足が悪いことと何か関係があるのか?」
 アナウンサー「私にはこの男が何を考えているのかわかりません。ですが、中野さん」
 解説者「なんだ?」
 アナウンサー「質問はひとつのはずでは?」
 解説者「そんなこと言ったか?」
 アナウンサー「言いましたよ」
 画面は再びリング上を映す。雅婁馬がマイクを持って野上拓馬を呼ぶ。
 雅婁馬隆作「野上。次はお前が出てくる番だ。お客さんを退屈させないでくれよ」
 フォックスミラージュの『グッバイターニャ』が流れる。
 野上拓馬が登場する。リングに上がる。
 雅婁馬隆作「フフフ。さあ」
 雅婁馬隆作が野上にマイクを渡す。
 野上拓馬「中野さん。あなたは世界王座の復活に納得がいっていないようですね」
 中野幸助が立ち上がる。
中野“ジャック”幸助「お前には関係ないぜ野上。ガキが色気づいて大人の話か?お前のことは嫌いじゃないぜ、野上。お前が初めから雅婁馬をぶっ潰すつもりでいることもわかってる。だが、これは大人の話だ」
野上拓馬「人を見た目だけでガキ扱いするのやめてくださいよ、レジェンドのジャックさん。俺だっていろいろ考えてるんですから。あなたが世界王座の復活に反対するのって実際にはどういうことなんです?そのことでまた死者が出ると?」
 中野“ジャック”幸助「もういい、黙れよ。野上。トニー・ヒーローや川相英作や俺が勝ち取ってきた世界王座とお前が来週挑戦する世界王座とやらは同じものじゃない。それが問題なんだよ、野上」
 先ほどから退屈そうに話を聞いていた阿杜未森がつかつかと野上に歩み寄ってマイクを奪う。野上は阿杜に抗議することもなく、しばらく状況の変化を冷静に見守ることに決めたようだ。
 阿杜未森「さっきからごちゃごちゃとうるさいんだよ、おっさん。場違いな天然記念物はそろそろ黙ってみたらどうなの?じゃないとあんたなんか雅婁馬さんが首にしちゃうぜ」
 阿杜未森が中野に向かって首を切るポーズをしてから、ゆっくりと顔を上げて観客席を左右に睨み、それから振り返ると、野上拓馬が片手を差し出して、指を手前に曲げながら催促する。
 阿杜未森はしぶしぶマイクを野上拓馬に返す。
 野上拓馬「それならこういうことにしませんか、中野さん。俺が阿杜未森に勝って世界王座を獲得し」と言いながら阿杜未森を指差す。
 野上拓馬「防衛戦で雅婁馬隆作に勝利する」そして、雅婁馬隆作を指差す。
 野上拓馬「その後はあなたに下駄を預けますよ。あなたが再びこれを廃止したいならそうすればいい」
 雅婁馬隆作がリング下に新たなマイクを要求する。
 マイクを受け取ると、リング中央に歩み出る。
 雅婁馬隆作「フフフ。今のは聞き捨てならんなあ、野上。俺への忠誠はどうした?お前が俺を倒すと言ったか?」
 野上拓馬「残念だが、雅婁馬。俺は世界王座が復活し、その世界王座を獲得した者はその防衛戦の相手を選ぶことができること、そして、復活して最初の世界王座戦に俺の出場が内定していることをある筋から掴んでいた。つまり、俺があんたに忠誠を誓ったと見せかけた時には既にこのことを考えていたのさ。もう茶番は終わりだよ、雅婁馬。俺はあんたのことが心底嫌いだ」
 雅婁馬隆作「フフフ。何も世界王座を取ってからと言わず、今すぐやったっていいんじゃないか?」
 両者がにらみ合う。
 野上拓馬「中野さん、どうです?俺の案、悪くないでしょ」
 雅婁馬隆作が突進して野上拓馬の顔面に右ストレートを撃ち込んでいく。
 客席から悲鳴が上がる。
 野上拓馬は間一髪でそれを交わして、ロープに走り、反動で跳ね返ってくると、雅婁馬にクローズラインを撃ち込む。激しい音がして雅婁馬が倒れる。
 野上はさらにロープに走って跳ね返ってくるが、横から阿杜未森がエルボーをぶつけて野上は倒れる。
 阿杜が野上を立たせて後ろから羽交い絞めにすると、倒れていた雅婁馬隆作の巨体がむくりと起き上がる。
 雅婁馬隆作「フフフフ。しっかり押さえていておいてくれよ、未森。フフフ。来週の世界王座戦は万全の状態では闘えないかもしれないなあ、野上君。せっかくの晴れ舞台だというのに」
 観客は雅婁馬にブーイングを浴びせていたが、それが突如歓声に変わる。
 何事かと雅婁馬が廻りを見回すと、その背後からひとつの俊敏な影が飛び出して阿杜未森の顔面に強烈なドロップキックを撃ち込む。
 阿杜は激しくリング外に吹っ飛び、マスクを被ったSKハーシュが雅婁馬隆作を睨みつける。観客席が興奮に沸き返る。
 雅婁馬隆作は笑いながら両手でSKハーシュをなだめるような仕草をする。そして、ゆっくりとリングを降りていく。
 野上拓馬「中野さん。どうですか。俺は闘いますよ。地球を守る為に」
 観客大歓声。
 解説者は考え込んでいたが、やがて
 中野“ジャック”幸助「くそっ。好きにしろよ」
 野上拓馬「いいんですね、中野さん。俺が来週、世界王座を闘っても」
 中野“ジャック”幸助「ああ。だが、雅婁馬隆作を倒すまでだ。それ以上はもう、人の墓を踏み荒らすような真似はやめてくれ」
 野上拓馬「そうですか」
 野上拓馬はSKハーシュと拳を合わせてから共にゆっくりとリングを降りていく。
 溶暗。
 






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