姫河恵二コラム 目指せインテリ奮闘記!!

  俺ももう若くはない。かつて、ジャポニカに書かれた秘密を見せ合い、放課後は暗くなるまで共に汗を流した仲間は今や会社で出世を重ねて多くの部下の尊敬をその身に集めている。
 初恋の相手は母親になり、モルテンのバレーボールをしばいては異性の注目を浴びていた頃とは別の顔を子供に見せている。
 人生とは何かと考えさせられるよ。
 プロレスリング散空抱地初回のリングで負傷した姫河恵二は、日下総合病院の個室で、かねてから依頼されていた散空抱地公式サイト用のコラムの第一回目を書き上げようとしている。
 俺が雅婁馬隆作に歯が立たなかったことに関して言い訳をするつもりはない。
 怪我を治して相変わらず体を鍛え、必ず雅婁馬隆作の首根っこを掴んでキャンバスに叩きつけてやるつもりでいるが、一方で、たった一人の病室でただ動かずにいることだけが俺のすべてだった時間に、自分が体を鍛えること以外にほとんど何もしてこなかったことを嫌でも思い知らされた。つまり、俺から格闘技を取ったら何が残るのか。
 朱雀哉眼のような男なら「それだけでいい」と言うのかもしれないが、あいにく俺は普通の人間だ。奴とは違う。
 そういうわけで、俺もこの年になっていっぱしの教養を身につけてみたいと思い立った。


 ニーチェやカント、キルケゴールといった名前は聞きかじったことがあったが、難しい本を読みたいと言った俺に妹が差し出したのは、マルティン・ハイデッガーという聞きなれない名前の男が書いた『存在と時間』という本だった。
 この意地悪な妹は俺のたったひとりの兄弟で、俺が彼女を愛するのと同じように俺を愛してくれている。
 今ではアップル社のハイテク機器を使いこなし、結婚もして二児の母親である彼女も、俺の中では相変わらず、ホダカの赤い子供用自転車のサドルをいつの間にか手放していた俺を泣きそうな顔で睨みつけた可愛い妹のままだ。
 しかし、彼女にとって俺は最早、尊敬する兄ではなく、時間を見つけて見舞いに訪れては、退屈しのぎに困らせて反応を楽しんで遊ぶ可愛いおもちゃになりさがっているようだ。
 彼女にはこの本が、飽和状態にある自分の人生に何か別の角度からの視点を与えてもらうことで新鮮な気分になりたい人間が読むものじゃないことくらいはわかっていたはずだが、とにかく俺はこの本を読み始めた。


 根本的な問題として、哲学とは、そしてこのいかれた男はつまり、何を志向しているのか。
 存在者の存在を理解し、これを概念的に表現すること?なるほど。
 つまり、俺は迂闊にこんなものに手を出すべきじゃなかったのかもしれない。
 繰り返し持ち出される「現存在(みずから存在しつつこの存在に向かって了解的に態度を取っている存在者)」という言葉の使われ方を認識するだけでもその都度ちょっとしたテクニックを用いなければならないほどだ。
 つまるところ俺は、自分を見つめる自分を客体として見つめればいいのか?
 そして、例えばこんな表現がある。
 ”世間的 = 自己が大声でしきりと《私が、私が……》と言いつづけるのは、それが根本においては本来的に自己自身を存在せずにいて、本来的な存在可能を回避しているからである。”
 これらのことについて俺は妹にちょっとした議論を持ちかけてみたが、トレーニングにかまけてかまってやれなかった時の仕返しとばかりに、「息子を幼稚園に迎えにいく時間だから」などと言って帰ってしまう。そして、俺は誰もいない個室に一人取り残される。


 今日は妹も後輩も見舞いに来なかったので、長々とこういったことを書き連ねることができたが、今ではもうトレーナーが来てリハビリの時間だと俺を急かしている。
 しばらくは入院生活が続きそうだから、今のうちはこの本をさらに読み進めていこうと思う。
 だから、この続きはまた今度だ。



 ところで、余談だが入院中はヒマなのでツイッターを始めた。
 
 https://twitter.com/#!/intelli_egg


 こちらもよろしく頼む。


 インテリへの道は続く。